ページ内目次 [非表示]
最高の学習環境を用意することに対する不安
理想的な教材の追求
筆者は長い間,どうすれば,
次のような条件を満たす理想の数学教材を作れるかと
考え続けてきました。
- 指導者がいなくても学習を続けられる。
- 様々な理解度の学習者がいる中で,
誰が読んでもちょうどよい長さ・詳しさの
解説が用意されている。 - ある単元を学習するのに必要な
別の単元の理解が足りない学習者に対し,
その単元を特定し,復習を促せる。 - 基礎だけを学んで応用を後回しにしたい場合にも
対応できる。
他にもありますが,ともかく,
このような教材があればどんなに良いだろう,
時間と人手をかければ可能なのでは,と
ずっと考えてきました。
理想的な授業の追求
筆者は集団授業をした経験はありませんが,
他の多くの人と同様に,
集団授業を多数受けてきました。
その感想として,
学校で行われている一般的な集団授業には,
改善の余地がかなりあると感じています。
詳しくは別記事にまとめましたので,
そちらをご覧ください。
関連記事
最高の環境でなければ学べない人材になってしまわないかという不安
この記事で問題にしたいのは,
教材や授業に改善を施すことで理想的な学習環境を実現し,
実際に効果を発揮して,
多くの生徒が(例えば)高校数学までは
十分に理解したとして,それでよいのかどうかです。
つまり,そのような至れり尽くせりの環境でなければ
学習が捗らない人材になってしまわないかという心配です。
本を見ながら筆記用具を動かすという,
書物さえあれば可能な学習形態から
かけ離れたタイプの教材や学習環境を用意すると,
それにどっぷり浸かって学習した人は,
高校までは好成績で卒業できるかもしれませんが,
大学でそっけない書物に囲まれて
苦しむ可能性がありそうです。
それはそれで,無責任ということになるかもしれません。
そう考えると,どんな形であれ,
学習者にとって学びやすい環境を整えすぎるのは,
もしかしたら功罪があるのでは,と思うのです。
だとすると,最高の教材や学習環境を用意することを
目指すべきではないのだろうかという
疑問が湧いてきました。
この記事の主な主張点
結論を先に書くと,
少なくとも高校までの数学に関しては,
学習者にとって最高の教材や学習環境を用意することを
躊躇う必要はないと思います。
ただし,それを誰に使わせるべきかは,
慎重に判断する必要があります。
つまり,非常に良い教材や学習環境があり,
学習効果の向上は確かに期待できるけれども,
この生徒には使わせない方が良いという判断が
ありうるということです。
最高の教材や学習環境を用意できたなら,
次のような方針で利用すると良いのではないでしょうか。
- 数学の学びに余裕がない生徒には,
できる限り学びやすい教材や学習環境で学んでもらう。
学びやすくない環境で学ぶ能力は,
他の機会(他教科の授業など)で身につけてもらう。 - 数学の学びに余裕のある生徒は,
オーソドックスな学習スタイルを多く取り入れ,
特に学びやすいわけではない環境で学ぶ能力も
同時に身につけてもらう。
高校と大学の学習環境をどう繋げるか
高校以下の学校と大学以降の教育機関で,
教育に対する熱が格段に違うことは,
多くの人が認識しているところだと思います。
すなわち,高校までは,
学習内容を理解させるのに熱心な先生が多いですが,
大学では,研究は熱心ですが
授業(講義)は最低限という先生が多くなる印象があります。
教えるべきことは授業でもれなく解説するけれども,
理解できなければ自己責任,欠席しても自己責任,
受講者の方で何とかすべきという空気を
はっきり感じる大学生は多いのではないでしょうか。
この空気感の違いに対応できる人材の育成について
考える必要があると感じます。
学習段階が進むにつれて色あせていく教科書シリーズがある
中高一貫校向けの教科書シリーズの例ですが,
シリーズ序盤の中学生向けの分冊はカラフルなのに,
シリーズ終盤の高校3年生向けの分冊は
黒1色になっているものがありました。
教科書の分かりやすさだけを考えるなら,
最後までカラフルにした方が良いと思われます。
にもかかわらずそうしないのは,
大学以降の学習を見据えての工夫であろうと
推察しています。
大学では,一般の学術書を参照する機会が増えます。
それらの学術書は,必ずしも,
読みやすさを重視した構成になっているとは限りません。
カラフルではないかもしれませんし,
重要事項を枠で囲んだりしていないかもしれませんし,
下手をすると太字や下線すらない
書物もあるかもしれません。
個人的には,一般向けの書物と言えども,
何かを学ばせるための学術書であるなら,
著者・編集者が負担できる範囲でよいので,
学びやすさに配慮した構成にしてほしいとは思います。
ただ,実際に,配慮の行き届いていない書物はありますし,
論文ともなればなおさらでしょう。
そのような書物や文書に耐性がない人は,
情報自体はあるのに学べないという
もったいないことになってしまいます。
上記の教科書シリーズは,高校の教科書の段階で
慣れさせようとしていたのではないでしょうか。
一方で,最後までカラフルな教科書シリーズも多いです。
(むしろ多数派か)
これは一長一短で,どちらが良いとも言えませんが,
(紙ベースの)教材を作成するにあたり,
少なくとも考えるべきところでは
あるのだろうと思います。
最高の学習環境を使うべき人とそうでない人
理解度が大きく遅れている生徒には使わせるべき
日本の学校教育では,生徒の理解度にかかわらず,
同じ学年,同じ時期の生徒に対しては,
同じ単元の授業を行います。
数学では特に,
前提となる単元の理解が大きく不足している場合,
現在行われている授業は理解できるはずもなく,
その生徒にとっては授業時間の大半が
無駄になってしまいます。
その上で,定期試験では,
ある程度の点数を取るという無理難題を課せられます。
これは,生徒にとって相当な苦痛であるはずです。
日本人に数学嫌いの人が多いのは,
その苦痛が最大の原因であると断言して
差し支えないでしょう。
しかも,現在の授業が理解できないことで,
後続の授業で要求される理解度と
その生徒の理解度の差がさらに開き,
生徒の苦しみもさらに増すという
悪循環が生じます。
また,不登校からの復帰を目指す場合,
数学の学習進度が追いついていないと,
復帰後の数学の授業が苦痛になり,
再び不登校へと心が傾く要因になりかねません。
当サイトの序文で述べた通り,
筆者は,その状況を生みだす教育制度に
メスを入れるべきだと思っています。
しかし,現状がそうなっているのですから,
学習者や教育関係者としては,
対応しないわけにはいきません。
その状況を脱するためには,手段を選ばず,
理解度の差を早急に埋める必要があります。
その生徒に合う教材や学習環境があるならば,
それがIT教材や個別指導などの
大学以降では望みにくいものであったとしても,
躊躇いなく使うべきでしょう。
大学の学びとの接続については,
他の手段で対応するか,
数学の理解度が学校の授業に追いついてから
考えるのが妥当だと思います。
学びに余裕がある生徒には,普通の学習環境にも慣れさせたい
優れた教材に浸かることには弊害もある
逆に,既習事項の理解度が高く,
日々の学びに比較的余裕がある生徒には,
教科書その他の書物を読んで学び,
必要に応じてノートを作るなどの,
オーソドックスな学習スタイルにも
慣れてもらった方が良いと思います。
成績上位の生徒が,
種々の工夫をこらした教材にどっぷり浸かった場合,
その時点での学習効率はさらに上がるかもしれません。
しかし,大学入学後は,多くの場合,
そのような教材が得られなくなります。
その時に,オーソドックスな学習スタイルに
慣れてこなかったことが影響するおそれがあると思います。
現時点で理解度の高い生徒が
優れた教材を使ってはいけないとは言いませんが,
優れた教材がない中で学習成果を挙げる訓練が
完全に疎かになるようなことは避けたいところです。
個別指導も,過保護になるのは考えもの
個別指導も,大学以降では得られにくい教育形態です。
個人的には,個別指導は学習成果が得られやすい
形態だと思います。
ただ,個別指導に頼り切ることで
高校までの学習を乗り切った生徒は,
独学の能力が十分に伸びていない可能性があります。
その状態で大学に入学するのは,
生徒本人は気づかないでしょうが,
梯子を外されるに等しいのではないかと思います。
中学,高校時点の数学の学習進度が
大きく遅れている生徒なら,
後先考えずに個別指導に頼るのも
やむをえないところです。
しかし,現時点で数学の理解度がまずまずであるなら,
基礎理論から問題演習まで付きっきりで
個別指導してもらうのは,
むしろ避けた方が良いように思います。
例えば,基本的に独学をして,
自力では解決できない疑問が生じた時に,
その質問をするために個別指導を利用するといった形が
良いのではないでしょうか。
その疑問についても,できることなら,
疑問が生じた時に個別指導を受けられないとしたら,
その疑問をどのように解決するかまで考えたいところです。
生徒自身がそこまで考えるのはまず無理だと思うので,
指導者側が意識して,自力で問題を解決する能力を
身につけさせることができれば理想でしょう。
大学以降の教育環境にも変化を求めたい
前述した通り,大学では,高校までに比べて,
教育の熱は大きく下がる可能性があります。
だから熱心でない教育に対応できるように
するというのも1つの考え方です。
ただ,教育の熱心さ,きめ細かさなどが
著しく足りない大学があるなら,
大学教育の方を改善するのが本筋だと思うのです。
高校と大学の教育環境の差を小さくしたい
大学生は,総じて高校生より独学の能力は高いはずであり,
かつ勉学の意志も高くあるべきだと思うので,
大学でも高校までと同じ水準の教育熱が
必要だとは思いません。
しかし,大学は,研究機関であると同時に
教育機関でもあります。
最終的には学生の自主性に任せるにしても,
意欲と能力のある学生なら
着実に学問を修めていけるだけの環境を
用意する義務があると思います。
大学教育は熱心さやきめ細かさや配慮に欠けるものだと諦め,
それに対応できる学生を
どう育てるかとばかり考えるのではなく,
大学教育に改善を施し,
高校と大学の教育環境の差を小さくするという視点も
必要でしょう。
その上で,高校ほどには熱心でない大学の教育に
対応できるだけの準備を,
各々の高校生がしておくというのが,
目指すべき形ではないでしょうか。
まとめ
最高の学習環境を用意した上で,必要な人に使わせるのが最善
以上をまとめると,次のような結論になります。
- 高校までの数学教育については,
できる限りの工夫を凝らして,
学習効率の高い教材を作り,
学習効率の高い学習環境を用意するのが望ましい。 - 学習効率の高い教材や学習環境のうち,
オーソドックスな学習法からかけ離れていて,
大学以降では手に入らないと考えられるものは,
主に数学の学びがかなり遅れている人が
使うのが望ましい。 - 数学の学びに余裕がある生徒は,
オーソドックスな学習スタイルを中心にして,
独学の能力を高めておくのが望ましい。
それは,進学先の大学の教育熱が低い場合に
特に重要になる。 - 大学は大学で,しっかり教育環境を整えるのが望ましい。
つまり,最高の教材や学習環境は,
用意した上で使う人を選ぶべきということです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
参考になれば幸いです。