集団授業の問題点
学校および世間一般で行われている「集団授業」には,
多くの人が同意するであろう問題点が
いくつか思い浮かびます。
ここで筆者が想定している集団授業は,
ある書物を教科書として,口頭での説明を加えつつ,
黒板や白板に要点を記述していくというものです。
それ以外のタイプの授業も
増えてきているかもしれませんが,
板書タイプの授業は今も広く行われているだろうとの
認識に基づいた記事です。
この形態の授業には,
次のような問題が付いて回ります。
- 受講者がノートを取っている間は,
受講者の理解はあまり進まない。 - その授業の内容を理解するのに必要な
前提知識が不足している受講者を
置き去りにしてしまう。 - 集中力を欠いている受講者や,
欠席せざるをえなかった受講者を
置き去りにしてしまう。
特に,中学校までに比べて,
授業時間のわりに学ぶことが多い高校では,
授業時間中,ノートを取るのに
一生懸命になっている生徒の割合が
高くなっていた記憶があります。
しかし,多くのことを多くの人に
効率良く伝える手段であることは確かですから,
集団授業自体を否定するのも違うでしょう。
考えるべきは,次のような性質を持つ集団授業が
実現できるかどうかだと思います。
- 受講者がノートを取るのに
時間や思考力の大半を使わずに済む。 - その場で授業の内容が十分に理解できなくても,
自分のペースで後から取り戻すための
現実的な方法がある。
この記事では,集団授業のあるべき姿について
考えたいと思います。
ノートを取るという行動の目的
ノートを取るという行動の目的は,
授業の内容をその場で理解することではありません。
その場で理解できない場合や,
理解できたとしても忘れてしまった場合に備えて,
後から見て確認できるように書き残すことです。
ですから,ノートを取る人が気を使うポイントは,
次のようになると考えられます。
- 書き間違いをしないこと。
- 書き漏らしをしないこと。
- 意味が通る形にまとめること。
はっきり言って,理解は二の次です。
書き間違いや書き漏らしをすると,
大げさな言い方をするなら,取り返しがつきませんから。
理解は後からでもできますので,
完璧に記録することが最優先になるのは
仕方がないところです。
そして,家庭学習などで
そのノートを使って復習を行い,
理解を定着させるわけです。
筆者は,これは二度手間であると思います。
もしも,最初から,
要点がまとまったノートのようなものが
配布されていたとしたら,
受講者は,授業時間のほとんどを,
授業内容の理解に投入することができます。
その方が,授業内容を授業時間中に理解できる可能性が
格段に高まることは明らかです。
それによって浮いた時間を,より深い学習や,
他の活動に振り向けることができるでしょう。
ノートをまとめること自体の効用を
主張する向きもあると思いますが,
その作業に追われて授業内容の理解が進みにくいという
大きなデメリットを補いうるほどの
ものであるとは思えません。
筆者は,基本的に,集団授業は,
受講者がノートを取るのに
一生懸命になる必要がないように
構成するべきだと考えています。
数学の授業でなくてもです。
また,高校以下の学校教育に限らずです。
理解を深めるために自前のノートを作ることが
有効であるとしても,それは自学自習の時に,
教科書を見ながら行えばよいと思います。
その方が,自分のペースで行えますから。
それも,教科書を見るだけでは
理解が進まない部分についてのみ行えば十分でしょう。
学校の授業で,全ての内容を
ノートに取らざるをえない状況を作るのは
良くないと思います。
工夫の余地はある
ノートをとる必要がない授業
ノートを取る必要がない授業を実現するなら,
その方策は次のようになるかと思います。
- 授業では,基本的に教科書の内容のみ
扱うことを宣言する。 - 教科書の内容のうち,授業で扱わない部分については,
学ぶ優先順位が低い部分として明示する。 - 教科書にない内容を扱う場合は,
それについての詳細な資料を配布する。 - 授業内容の穴埋めプリントを用意して,
それを見ながら授業を行う形態にする。
教科書に忠実に沿うことの効用
教科書にしっかり沿うことは,結構重要です。
もっとも,高校までの授業は多くの場合そうなっているので,
その点は問題ないと言えるでしょう。
筆者が通った高校もそうだったので,
高校までの数学の授業では,板書と教科書を見比べて,
ほぼ同じならノートに書く必要はないと判断し,
理解に全神経を集中するという対応ができていました。
教科書に沿った授業を行うことで,
そのような対応がしやすくなるわけです。
教材制作会社にもできることがある
上で「授業内容の穴埋めプリント」を提案しましたが,
それを用意した先生は,実際にいらっしゃいました。
校種や教科は伏せますが,
その先生は,授業の各回の内容を
穴埋め形式で1枚のプリントにまとめ,
受講者全員に配布し,
それを見ながら授業を進められていました。
(板書はほとんどなし)
この先生の授業では,ノートを取る必要が全くなく,
気兼ねなく話を聞くのに集中できた覚えがあります。
それは,今思うと素晴らしい努力であり,
頭が下がる思いですが,
それぞれの先生が個々人でするべき努力かは疑問です。
最初から,教科書会社が,教科書準拠の,
ノートの代わりとなる書き込み式冊子を
用意しておいてもよいのではないでしょうか。
教科書会社が用意しないなら,
教科書会社に許諾を得た上で,
他の会社が作ってもよいと思います。
いずれにしても,学校では,
「代替ノート」を全ての生徒に使わせつつ
授業を行うわけです。
これだけでも,受講者のノートを取る負担が激減し,
授業時間内の学習効率は飛躍的に上がると思います。
かつ,この「代替ノート」は,
欠席した授業の内容を自学自習する際にも,
大いに役に立つはずです。
おそらく,似たようなことが
一部では行われていると思いますが,
学校教育ではそれが標準として認識されるほどに
広まってほしいと思います。
欠席者を置き去りにしない授業
集団授業という形態である以上,
欠席者が置き去りになるのは仕方がないのでしょうか。
その授業が終わった時点ではそうかもしれません。
しかし,最初から欠席者が出ることを想定していれば,
欠席者が後から取り戻す手段を
用意することはできるでしょう。
前述の穴埋め式プリントや「代替ノート」も
大きな助けになるはずです。
数学では特に,病気等で数日間休んだだけでも,
その間に,他の単元への影響が大きい
重要な内容の授業が行われていた場合,
その部分の理解が抜け落ちることで,
その後の授業の理解にも影響が出るおそれが強くなります。
にもかかわらず,再び学習に精を出せる状況になった時に,
遅れを取り戻す方法が用意されていないとしたら,
それはちょっと酷い話ではないかと思うのです。
授業を受けた場合に比べて,
理解度は下がるかもしれないし,
一定の理解を得るのに,余分に時間がかかるかもしれない。
けれども,ある程度の時間をかければ,
欠席した授業の内容を自力で理解し,
その後の授業にもついていける。
それを可能にするための現実的な方法を用意することは,
学校教育の責任ではないかと思います。
大学以降の授業に対応できるように,高校までで慣れさせるべきか
高校までの学校の授業を至れり尽くせりにしすぎると,
親切さに欠ける授業に対応する力が養われない,
と心配する方もいらっしゃるかと思います。
一般的に,多くの大学は,
高校までに比べると教育熱心ではなく,
学業は学生任せになりがちだと思います。
それを念頭に,高校までで過保護になるのを避け,
親切すぎない授業を受けさせておくことには,
大学以降の授業にも対応できる力を養うという
メリットもあると考えるわけです。
筆者個人の意見としては,
高校生のうちに,大学の授業に対応できるよう
備えること自体には賛成なのですが,同時に,
大学教育に対しても変化を求めたいところです。
高校までの授業を,大学以降の授業に似せて
対応しにくい形にするのではなく,
大学以降の授業を高校までの授業に似せて,
対応しやすい形にする努力をするのが
本筋だと思うのです。
そのあたりについては,
この記事の主題から外れますので,
別の記事にまとめました。
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まとめ
集団授業という形態には難点もありますが,
学校教育で集団授業が採用されるのは
しかたのないところかと思います。
ただ,集団授業でも,工夫次第で,
次のような性質を持たせることは,
ある程度可能であると考えています。
- 受講者がノートを取るのに
時間や思考力の大半を使わずに済む。 - その場で授業の内容が十分に理解できなくても,
自分のペースで後から取り戻すための
現実的な方法がある。
学校の数学の授業から理解が遅れる生徒は,
どうしても出てきます。
そのような生徒が,
学校の数学の授業に追いつくための現実的な手段が
自然に得られるような環境作りが,
指導者や教材制作者,教育政策の立案者等に
求められているように思います。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
参考になれば幸いです。